「例年に比べて●日早い梅雨入りです」
とか
「50年に一度の暴風雨」です。
という報道を見るといつも思います。もう地球環境がこんなにも変わってしまったのだから、その比較に意味がないのです。
地球環境も経営環境も家庭環境も「不変」ではない。
つまり、過去のデータは「普遍」ではない。
だからこそ、自分の普遍的なものさしを持つべき。それが理念。
「例年」というものさしは既に存在しない。
台風が逆走したり、信じられないぐらいのゲリラ豪雨が都心を襲ったり、もう天候はすごいことになっています。そのことが人々の生活の持続可能性を脅かし被害を与えていることに心を痛め、そしてそれが自分にも起こることなのではないかという不安にかられています。
だから、これまでの気象データと比べて、梅雨何日早まっていることなんて報道してなんの意味があるんでしょうかね?
そして、刻一刻とオゾンホールが破壊されて温暖化が進んでいるのに、また来年になったら梅雨入りが例年と比べてどうなのかを報道するのでしょうか。その「例年」というものが、ずっと変わらない安定的なものであればよいのですが、その前提が変わってしまっているのです。
ここで言う「前提」というところを見ることが経営にとても重要な気がしています。
前提が変わるという前提で考えましょう
経営環境も刻一刻と変わっています。例えば保育園業界では「待機児童」の問題がずっと解消されずに保育園が足りない状態が慢性化していました。しかしすでにその言葉は過去のものとなり(一部の地域・エリアでは待機児童はまだ解消されていませんが)、今はその逆で「保育園あまり」が問題かされるようになりました。この2021年4月は全国各地の保育園で0歳児の入園が少なく定員割れがあちこちで起きています。
この一気にオセロがひっくり返るような状態はコロナ禍の影響が大きいです。
「保育園あまり」の課題は数年後にやってくることは予測されていましたが、そのことをコロナ禍が加速させました。もう一気にやってきました。
すると私たちは理念に立ち戻り、今一度自分たちがなんのために存在しているのかを問い直し、その上で行動すべきです。もう少子化の加速をストップすることも難しいので、私たちは「過去との比較」で経営判断をするべきではなく、「理念との比較」で方向性を定めるべきなのです。
理念は普遍ですから。
しかし理念は「普遍」であっても「不変」ではない、ということをまた別の機会に書きたいと思います。