世の中で「先生」という肩書きがつく人ほど、社会性を失っている気がします。
「先生」という肩書きを権威付けのために使うと、社会性がなくなる。
学校の先生もそうですが、保育士も一般的には「○○先生」という呼び方でお互いを呼んだり、保護者から呼ばれたりします。
その肩書きの意味なんてイチイチ考えないでしょうし、そんなところにこだわる必要もないのかもしれませんが、私はとても違和感を覚えます。
なので、ChaChaでは「○○さん」という呼称でやっています。私もスタッフから「けんたろうさん」と呼んでもらっています。
その「先生」に感じる違和感を解説せねばですよね。
気持ちが抜け落ちた単なる習慣
まず、「先生」という言葉から感じるイメージなのですが、この呼び方で呼ぶ側の意識として「尊敬」とか「憧れ」のような感情が裏打ちされている気がします。しかし、単なる習慣や慣例でそのような呼び方をしていると、その意識や感情が抜け落ちているので、呼び方だけがスベっているように思います。
世の中にはいろいろな人がいるので、保育士でも尊敬できる人もいれば尊敬できない人もいますよね。なので、そのあたりの人間関係の基礎となる「気持ち」が蔑ろにされてしまう盲目な感じがイヤなのです。
権威は後からついてくるべき
私は保育士が実は専門性が高く、クリエイティブな仕事をしてくれていることを知っていますが、まだまだ世の中は十分に知ってくださってはいません。残念なのですがそれが現状です。であるならば、「先生」という肩書きで権威を先行させるのではなく、もっと謙虚になるべきだろうな、というのが2つ目の違和感です。
肩書きが対等性を排除してしまう
そして、保育園の中を「教える側」と「教わる側」で区切って良いのかな?と思うのです。それが3つ目の違和感です。つまり、保育士もこの仕事を通して、そして子どもたちからも多くを学んで成長をしていっています。つまり保育士が先生なのであれば、子どもたちも先生なのです。この対等性の中に本来の教育がある気がするのですよね。
そして、この対等性を見失いと、人は必ず社会性を失うのです。社会性というのも難しい概念ですが、例えば自分を俯瞰することも社会性の一つですが、その意識が抜け落ちてしまうのです。
自分を俯瞰できていたら、汚いジャージやエプロンで子どもの散歩をしている保育士の姿が街からいなくなるはずです。
つまり、見た目だけではく、このような「呼び方」もデザインの一種です。そこに意図がある限りは、デザインなのです。