まさに現代はSDGsやジェンダーフリーの時代になったので、性別は男性と女性だけではないし、自分で決めるものです。男性だからどうすべき、とか、女性だからこうあるべき、なんて議論に意味はないです。
でもあえてここは私が事業を継ぐために保育園業界に参画した約20年前に時を戻しましょう。
創業者は女性(母)、私は男性、これがよかった。
性別が違う方が2代目は自分の立場を作りやすい。
母がすべての責任を負い、事業を推進していたときに、まさに母が背中で理念を語っているころです。そのときに私は法人に加入をしました。
私が加入することに、法人内に多くの反発はなかったですし、スタッフや役員のみなさん暖かく迎え入れてくださったのですが、どことなく僕がどんな人間なのか、どんなやりかたをするのかを注意深く観察されているような気はしていました。
そのときにふと思ったのです。
ものさしをかざして様子をみる人々
まわりの人々が僕を観察するときのものさしは「創業者と同じところ、違うところは何か」という視点だったのです。
その際に、私と創業者の性別が違ったことはとてもラッキーでした。
つまり単に性別が違うだけで、まわりの人々は「創業者と違うところがあって当然」という前提で私との関係を作ってくださったのです。もし仮に私が女性だった場合はきっと周りの人々は母と同じことを求めたでしょうし、違うことがあることにその都度戸惑いを持たれたのではないでしょうか。
そもそも別人格なのですが、なかなかね。
そもそも世襲によって創業者と2代目が家族であったとしても、そしてとても似ていたとしても、人格は別ですし、それまで見てきた景色は違います。だから違って当然なのですが、ここが家業の世襲の難しいところでして、スタッフの方々がはなかなかその別人格であることをスムーズに受け入れることができないものなのです。
だから、多くの工夫をこらしながら、「創業者と私は別の人だし、別の行動をとりますよ。」ということを理屈でも感情でも伝えてゆく必要があるのですね。そのあたりの工夫はまた改めて書きましょう。