仕事柄、さまざまは方と「子どもってさ」という話をします。このような話は乳幼児教育の専門家だけが話して良いのではなく、すべての人が関心をもってくださることが大変ありがたいです。
その中でよく、「子どもって純粋・ピュアじゃないですかぁ」ということをよく耳にしますし、この考え方はそれぞれの考え方というよりも、誰しもが同意すべき「前提」のような雰囲気ですよね。
子どもは純粋(ピュア)だと思いたい、という視点が日本の教育観を歪めているかも!?
子どもこそ利害の塊
私は実は「子どもは純粋なんかじゃないよ」と思っています。これを言うと嫌われることもあるし、前述のような「前提」を崩すことになってしまうので、場の雰囲気が悪くなるのであまり口にはしませんが、そう思っています。
子どもこそ、利害と私利と欲にまみれていますw。
でもそれが悪いことだと思っていないです、私は。
どちらかというと、その欲を隠せないことを「純粋だなあ」と思う方もいるかも知れませんが、どちらかというと「子どもたちには純粋であってほしい」という願いがこの前提を作ってしまっているのではないでしょうか?
この願いを持っている方々の子どもたちを見つめる愛情について否定は一切しませんが、もっと子どもたちについても人間の本質を見つめる視点を持っていただけたら、日本の教育観も面白くなってゆく気がします。
また、子どもたちの成長・発達を専門的に捉え、つまり心理学や脳科学の見地から捉えてゆくと、この私利と利害こそが環境との関わりをつくりだすことになりますし、興味や関心の種となるのです。つまり純粋だったら人は成長できないのです。
むしろ大人だった純粋である
そして、もう一つ思うのですが、「子どもた純粋なのであれば、大人だって純粋ですよ。同じ人間だから」とも言いたいです。大人であっても瑞々しい感性を持っている方がたくさんいます。「大人は汚れている、子どもはきれいだ」みたいなことも変な話です。
なので、私は世の大人たちに言いたいのです。大人がイキイキと生きていることが何よりも大切だと思います!
大人とか子どもとかというカテゴリー分けすらも、むやみにすべきではないし、私自身もこの先の人生に向けて多くのことを知り、成長したいと思っています、ChaChaの園に通っている彼らと同じように。それでいいじゃん。
教育者としては「子どもは宝」と言わねばならないのですが、経営者としては「子どももみんなも僕も宝ですが」と言いたいのです笑
このような「前提」と取り払ってゆくことで、今後の日本の教育の行く末のヒントが見えてきませんか?